ビッグバンド漫談
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田中啓文のビッグバンド漫談
エリック・ドルフィー

つまり、ドルフィーの音楽には後継者はほとんどいない、という結論を私は下そうと思う。前回、私はドルフィーの音楽とシュールレアリスムの絵画やクトゥルー神話との類似点について語ったが、もっと似ているものがある。それは、いわゆるアウトサイダー・アートであって、病的なまでに細部にこだわったような表現や、鉈でぶった切ったような大まかな表現、どこから持ってきたのかわからないような奇抜な着想、その結果現れ出る異常な美の世界……などが共通している(もちろんアウトサイダー・アートとひとくくりにしてはいけないし、さまざまなタイプのものがあるが)。我々には計り知れないことではあるが、ドルフィーもアウトサイダー・アートのアーチストも、「何か」を見た、見てしまった人々なのかもしれない。

前回の最後で、私は「ドルフィーのことを、時代の一歩も二歩も先を進んでいた演奏者と評価するひとがいる。しかし、それはほんとうだろうか」と書いた。というのは、これまで述べてきたように、ドルフィーが時代を先取りしていたのなら、そのうち時代が彼に追いつくはずだが、結果、そうはならなかったからだ。ドルフィーの音楽はいまだに鬼子であり、継ぐものはいまだ現れていないではないか。そういう意味で、私はドルフィーを聴くと、いつも宮本武蔵のことを想起する。武蔵もまた孤高の人物である。自著のなかで何度も二刀流の優位性を主張しているにもかかわらず、また、同時代の剣士である渡辺幸庵(将軍家指南役柳生但馬守宗矩の弟子で免許皆伝の腕前)が、「(武蔵は)但馬守に比べたら、碁でいえば井目(井目)も強い」と武蔵の剣が天下一だったことを認めているにもかかわらず、武蔵が創始した二天一流はその後の剣法の主流にはならなかった。これはおそらく、武蔵の二刀流が武蔵個人の超人的な資質に基づく剣法であって、誰にでも真似のできるものではなかったからだろう。ドルフィーもしかり。コルトレーンを置いてきぼりにするほどの圧倒的な演奏(ヴィレッジ・ヴァンガードのボックスを聴けば、よくわかります)を繰り広げていた彼の音楽は伝わらず、コルトレーンの音楽は多くの模倣者、追随者、後継者を生んだ。皮肉なものではないか。

しかし、ここ日本ではちょっと事情がちがう。たとえば坂田明、松風鉱一、林栄一という三人のアルト奏者は、ドルフィーから多くのものを得ている、と私は思う(あくまで個人的な感想だが)。ドルフィーが好きだ、ということを何度も公にしており、その作曲にも影響が感じられるうえ、音色もかなり似ている坂田、フレージングや作曲、多楽器奏者であることなど、かつてはもっとも近似していたと思われる松風、そして、折に触れてライヴでドルフィーの曲をとりあげる林……彼らは、ドルフィーに似ているとか、影響を受けた、とか、後継者とか、そういったレベルではもちろんなく、それぞれ自分の強烈な個性によってオリジナリティあふれる音楽を作りあげているが、その根本のどこかにドルフィーの影がある、ということも容易に想像できるのである。そしてまた、彼らのプレイにはドルフィーの演奏にあった「切迫感」があり、そのひたむきなブロウには、表面をなぞったコピーキャッツではない、本物にしかない精神的な共通項を感じるのである。

ああ、やっぱりドルフィーについて語るとこんな風にマジメになってしまうのだった。失敗だなあ。次回はこの連載の最終回です。

著者Profile
田中啓文
1962年、大阪府生まれ。作家。
神戸大学卒業。1993年、ジャズミステリ短編「落下する緑」が「鮎川哲也の本格推理」に入選。
同年「背徳のレクイエム」で第2回ファンタジーロマン大賞に入賞しデビュー。2002年「銀河帝国の弘法も筆の誤り」で第33回星雲賞日本短編部門を受賞。主な作品に「蹴りたい田中」「笑酔亭梅寿謎解噺」「天岩屋戸の研究」「忘却の船に流れは光」「水霊 ミズチ」(2006年映画化)などがある。
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