ビッグバンド漫談
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田中啓文のビッグバンド漫談
アーネット・コブ

コブは、ハーシャル・エヴァンス(カウント・ベイシー楽団の初代テナーマンのひとり)を始祖とする「テキサス・テナー」のひとりである。テキサス・テナーというのは、ブルースを基調とした豪快なブロウを身上とし、テクニックや音楽理論よりも、気合いや根性や雰囲気を優先させる、男らしい荒くれテナーマンのことで、コブはイリノイ・ジャケーやバディ・テイトと並んでその代表格である。

15歳でプロ入りし、1942年にイリノイ・ジャケーの後釜としてライオネル・ハンプトン楽団に入り、「フライング・ホーム・ナンバー2」のソロで大人気となる。この時期のハンプトン楽団は、キャット・アンダーソン、ジョー・モリス、ブーティー・ウッド、アール・ボスティック、アル・シアーズ、チャーリー・フォークス、ミルト・バックナー、スヌーキー・ヤング、ウェンデル・カーリー、ジミー・ノッティンガム、ボビー・プレイター、ジョニー・グリフィン、ジョー・ワイルダー等々といった錚々たる名手が名を連ねており、そのなかでコブはスタープレイヤーだったのである。そのころの録音を聴くと、ほぼ全曲ソロがある。また、ハンプトンの「単に突っ立って楽器を吹いてるだけじゃだめ。歌って、踊って、騒いで……とにかくどんな手を使っても客を絶対に満足させるんだ」的な、徹底してエンターティナーにこだわった姿勢はコブにも大きな影響を与えたにちがいない。

47年に自己のグループを結成したが、それはトランペット、トロンボーンに彼のテナーという3リズム+3管のリトルビッグバンド的編成で、ハンプトン楽団のR&B的アプローチを受け継いで、より一層ワイルドにしたものだった(アポロセッションで当時のコブが聴ける)。彼のバンドは黒人街の人気者になり、ジュークボックスからは毎夜、咆哮するコブのテナーが聞こえてきた(んじゃないか……と思うよ)。こうしてアーネット・コブは「テキサスから来た世界一ワイルドなテナーマン」(そういうタイトルのレコードもある)として、その名を不動のものとした。48年からしばらく病気のため引退していたらしいが、50年頃から再び活動を再開した。その頃の録音を聞くと、病気で引退など信じられない程強力なサウンドを聞かせてくれ、バリサクを加えた4管編成のアレンジもますますさえわたり、コブは絶頂期を迎えた(オーケー録音で聴ける)。

ところが、好事魔多し。なんと、彼は自動車事故にあい、松葉杖をつくことを余儀なくされるのである。その後は入院、退院を繰り返すようになり、演奏活動も断続的になり、レギュラーバンドを維持することはむずかしく、またジャズ界の動向がバップ、モード、フリーと変わっていくにつれ、いつしか話題に昇ることも少なくなり、ローカルミュージシャンとしてほとんど引退同然のように思われていた……。

著者Profile
田中啓文
1962年、大阪府生まれ。作家。
神戸大学卒業。1993年、ジャズミステリ短編「落下する緑」が「鮎川哲也の本格推理」に入選。
同年「背徳のレクイエム」で第2回ファンタジーロマン大賞に入賞しデビュー。2002年「銀河帝国の弘法も筆の誤り」で第33回星雲賞日本短編部門を受賞。主な作品に「蹴りたい田中」「笑酔亭梅寿謎解噺」「天岩屋戸の研究」「忘却の船に流れは光」「水霊 ミズチ」(2006年映画化)などがある。
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