KOBEjazz.jp

ジャズを愛するすべての人へ。こだわりのジャズ情報を富士通テンがお届けします。

ジャズピープル

やっぱり僕は体のすべてがジャズでできている。

時代とともにあらゆるフォーマットでの演奏にチャレンジし続け、半世紀に渡りトップシーンで活躍を続ける山下洋輔さん。熱く、そして茶目っ気たっぷりなジャズの巨人にお話をうかがいました。

person

山下洋輔[ピアニスト]

ピアニスト 東京都出身。1969年山下洋輔トリオを結成し、ジャズ界に大きな衝撃を与える。解散後はジャズのみならず和太鼓やシンフォニー・オーケストラと共演。88年には山下洋輔ニューヨーク・トリオを結成、世界各国で演奏活動を展開。13年9月、ニューヨーク・トリオ結成25周年アルバム『グランディオーソ』をリリース。99年芸術選奨文部大臣賞、03年紫綬褒章、12年旭日小綬章受章。国立音楽大学招聘教授。演奏活動のかたわら、多数の著書を持つエッセイストとしても知られる。

interview

フリージャズに身を投じる

── 山下さんの音楽活動の中で、ご自身の新時代への転換となった時期や出来事を教えてください。

はっきり覚えています。1969年の3月、山下洋輔トリオのリハーサルで「フリージャズでめちゃくちゃやってしまうのはどうか」と思い立って、トリオのメンバー——サックスの中村誠一とドラムスの森山威男——にそう頼みました。当時の僕は一年半に及ぶ療養生活を終えて、自分の音を出したい、強く激しく表現したいと思っていたのですが、それまでの知識や技術では思うような演奏ができずに苦しんでいた。その突破口としてフリージャズという手法に行き着いたのですが、今から思えばそこに至るまでの契機がありました。
病気になる以前の’66~’67年、この頃にはすでにオーネット・コールマンやセシル・テイラーが活躍していましたが、当時の僕にとってフリージャズは「近寄ってはいけない危険なもの」以外のなにものでもなかった。コードはいらない、きれいなビバップフレーズも不要という彼らの音楽は、バークリー帰りの(渡辺)貞夫さんから学んだ音楽理論やセッションでの演奏法など、それらすべてを否定する全く違う原理の音楽だったからです。
にもかかわらず自身の表現に行き詰まった時、重要なファクターとして浮かんできたのは、ひとつには’66年のジョン・コルトレーン日本公演ですね。大きな衝撃を受けましたが、僕を含めて、当時のコルトレーンを本当に理解していた人はほとんどいなかった。ファラオ・サンダースまで連れてきていて自分ではできないことまで彼にやらせた。その『叫び』が極限にまで達したかのような演奏でしたが、それを聴いた誠一は怒り気味だったし、コルトレーンを正統派として追いかけてきた松本英彦さんが「分からん!」と頭を抱えていたという話もある(笑)。唯一この日本公演の司会をした相倉久人さんだけが『至上の愛』以降のコルトレーンの行き先をはっきりと予言していました。彼の言葉は僕にずっと影響を与えて続けているのですが、その相倉さんが映画『荒野のダッチワイフ』の音楽監督となり、前衛的なことをやったのもほぼ同時期なんですね。これも僕をフリージャズへと向かわせる出来事だったと思います。相倉さんに呼ばれた僕らのカルテットは、今聴くとかなり『フリー』に近い演奏をしていました。誠一はその時のコルトレーンを彷彿させるような、森山は勝手に叩くのが天性とでもいわんばかりに、そして吉沢(元治)さんも前衛を全面に出した演奏をした。どんどん過激になる彼らに対して僕だけが「ちょっと待って、これはフツーのジャズなんだから」と一生懸命コンサバティブを保とうとしている(笑)。それか療養生活を経て、とうとう「もうやってしまおう!」となるわけです。いけないと思っていたことに身を投じなければならないこういう瞬間って、きっと誰の人生にもあるんじゃないのかな。
『なにをしてもかまわない』。’69年以来、それはずっと自分の根底を流れ続けてます。その代わりに自分の表現に責任を持つ、という原点に立たされた時期でもあった。
先輩たちから「デタラメはやめろ」と厳しく非難される中でも諦めずに続けられたのは、誠一も森山も音楽のことをよく分かっていたからだと思います。二人は先鋭的な現代音楽にも通じ、またその真似じゃだめだということも分かってた。3人で演奏し、オープンリールで録音して聴いてみるとこれがなかなかいい。森山の芸大時代の先輩で、今でもご活躍されてる元N響の百瀬和紀さんが新宿ピットインに聴きに来て「お前たちはすごい!誰もやってないことをやっている。こうじゃなきゃ俺たちは刺激されないよ」と激励してくれた。こうした言葉がどれほど糧になったかしれません。

ニューヨーク・トリオからビッグバンドまで

── ’80年代になると山下トリオを解散してアメリカへ行かれましたね。

‘85年にひとりでアメリカへ旅したことは大きかったですね。たくさんの人に出会い、飛び入りで演奏もしました。そしてソロで演奏した際にニューヨーク・タイムズに掲載されたことがきっかけとなって’88年にNYのスイート・べイジルに出演することが決まった。そのときソロでやるのか、あるいはもういちど日本のトリオを連れてきてブチかますのか考えました。日本やヨーロッパでは多少名の知られていた僕も、アメリカでは無名に近いミュージシャン。チャンスをもらった新人として一からやりなおそうと現地で正統派ピアノトリオを組むことを決意したんです。そのときに選んだ相棒、セシル・マクビーとフェローン・アクラフとは今日に至るまでの26年間、ニューヨーク・トリオとして続くことになったのだから、幸運な転換期だったといえるでしょう。

── 最近は若いミュージシャンの方と一緒に演奏される機会が増えているようですが、山下さんにとって彼らはどのような存在でしょうか。

僕自身、今の若い人たちがどんなことを考えているのか知りたいし、隙あらばなにか盗もうともくろんでいますよ(笑)。また相手が誰であっても自分を変えずにやる、どんな表現でもかまわないんだということを彼らに見てほしいし伝えたいですね。僕は演奏の前に方針を説明したり、反省会やって叱咤激励したりするようなバンマス的なことはあまりやりません。「自分でやるしかねぇだろ」と。演奏してるときの会話が分かんなきゃダメですから。みんな底力のある人たちだからいっしょにやるたびによくなっていきます。今日のトリオ、米田裕也と熊本比呂志、スペシャルセッションの寺久保エレナ・坂井紅介・本田珠也、アレンジャーの挾間美帆や赤塚謙一、ずっと前に知り合っている高橋信之介もそうだけど、彼らとはなんでも音で言い合える気心の知れた人たちです。無理なく演奏できる環境を自然につくっていたのでしょう。レギュラーのニューヨーク・トリオや2年に一度のビッグバンドなどはもちろんいつもベースになっています。

── ライブ版がリリースされ、山下洋輔スペシャルビッグバンドのツアーが始まりましたね。山下さんの思うビッグバンドの魅力とはなんでしょう。

大人数でいっせいに音を出す迫力とかっこよさ。そこに尽きるのではないでしょうか。最近、AKB現象でビッグバンドを考えています。この推測については対談集「音楽㊙講座」のあとがきの際、茂木大輔、仙波清彦、徳丸吉彦の各氏とも話しました。茂木さんは全員が揃うオーケストラの魅力との共通点やピンクレディに端を発する日本のTV文化の延長として、仙波さんは歌舞伎の「団体で出揃う」伝統の延長として、徳丸先生は、踊りへの参加が共有と敬意の表現に使われていたという民族学的視点で、それぞれがAKB人気を語ってくれました。これらはみなビッグバンドの魅力にも共通していえることなのだと思っています。

── 山下さんの中ではカテゴリーとしてのジャズがまだ存在しているのでしょうか。それとももっと広義の意味の音楽をやっている、という意識で活動されているのでしょうか。

やっぱり僕はジャズをやっている。体のすべてがジャズでできている。ジャズのやり方がほかの音楽に通用するかどうか試す機会があれば試したい、とずっとそういう考えで今日までやってきたような気がします。ビッグバンドでクラシックをやりたいわけじゃない。そっちはそっち、僕は僕。「とりあえず乱入しますが、いやだったらケリ出してくださいね」というスタンスは崩さないつもりです。やらせてもらってケリ出されたときには「ハイッ」とおとなしく帰ってこなきゃ。それがルールですから。ジャズにはどこか王道に対して、リスペクトを持ちつつもあえてアウトロー的な立ち位置を選んでいるというおもしろさがある。だいたい今回のビッグバンドの演目、『展覧会の絵』と『新世界』ですよ。N響がお得意の。

── なんかケンカ売ってる、みたいな……??

「お前ら何やってんだ!」ですよ、もう(笑)。いやいや、狙ったわけじゃないのにそうなっちゃった。結果的に、またしても大きな挑戦になりました。