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Jazz People

Focus on Challengers Vol.3 小倉直也 インタビュー
~トランぺッターになる宿命のもと、進んできた道のり~

20代のジャズミュージシャンにスポットを当てるインタビュー企画「Focus on Challengers」。今回は大阪大学ザ・ニューウェーヴオーケストラでは山野ビッグバンドジャズコンテストで2年連続入賞、またプロとして活動してからも常に関西の若手ミュージシャンのリーダー的存在として引っ張ってきたトランぺッターの小倉直也さんの登場です。2020年1月から2年間ニューヨーク市立大学Queens Collegeの大学院へ留学し、さらに研鑽を積む小倉さんに学生時代の事を中心にお話をお聞きしました。

Person

小倉直也

1992年生まれ。西宮市出身。同志社大学卒業。
ピアニストである母親の影響を受け、8歳からクラシックトランペットを始める。 高校の部活動でジャズと出会い、 在籍中に高校生ビッグバンドの全国大会である「スチューデント・ジャズ・フェスティバル」にて、2010年に神戸市教育委員会賞を受賞。 高校卒業後、同志社大学に進学するも、音楽性へのこだわりから、大阪大学軽音楽部スイングに在籍しジャズの奏法を学ぶ。 同軽音楽部の一軍ビッグバンドに所属し、大学生ビッグバンドの全国大会である「山野ビッグバンドジャズコンテスト」にて2012年に76.1InterFM賞(総合5位)、 2013年に日刊スポーツ賞(総合6位)に入賞する。 大学卒業後、関西のライブハウスを中心に、ビッグバンドや小編成のバンドで演奏活動をしながら、テレビ、ラジオなどメディアでの演奏、作編曲、 バンド指導など多岐にわたる活動にも積極的に取り組む。2020年1月から2年間ニューヨーク市立大学Queens Collegeの大学院へ留学。今後の更なる飛躍が期待されている。

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Interview

取材・文:小島良太(ジャズライター/ジャズフリーペーパー VOYAGE編集長)

七夕の短冊に書いた夢、「トランペットを吹く人になる」

── まずは音楽、トランペットとの出会いを教えてくれますか。

母親がピアノ教師、消防士の父親も学生時代は吹奏楽部に所属するなど、音楽に囲まれた家庭で育ちました。物心つかない頃から、両親に地域のコンサートや、クラシックのオーケストラの演奏会などに連れて行ってもらいました。母は私がお腹の中にいる時から音楽を聴かせていたと言っていましたね。三つ上の姉がヤマハの音楽教室に通っていたのですが、そこに勝手について行って参加していたらしく、しかも姉よりも早く音感を身につけて(笑)。トランペットは母が高校で管楽器の生徒のピアノも教えていたこともあって(お母さんは県立西宮高校音楽科の先生もされているそうです)、母の教え子の方のコンサートを聴きに行った時に演奏を見て興味を持ち、幼稚園の七夕の行事で短冊に「トランペットを吹く人になる」と書いたらしいです。トランペットがどんなものかもよくわからないままに、そんな事言っていたそうなんですよ。でもそれを言い続けていたら、8歳の誕生日に祖母がヤマハのエントリーモデルのトランペットを買ってくれて。すごく嬉しくて、自分流で遊び感覚で音を鳴らしていました。それまでの楽器を持っていなかった間は、段ボール製のハンガーラックの棒をトランペットに見立てて唇を振動させ、音を鳴らして遊んでいて、音楽会でそれを人前で吹いたこともありますよ。それだけ憧れがあったので、実際の楽器を持てただけで嬉しかったです。持っているだけで満足してしまってほとんど吹いていませんでしたが(笑)。当時はトランペットを習い事としてはやっていませんでした。習い事は、ヤマハの他に英会話、水泳、そろばん、アウトドアクラブとたくさんしていてさらに増やそうとは思わなかったのかも。実はそろばん・暗算は段位を持っています。

── なんだか小倉君がそろばんをしている姿がイメージできないですね(笑)。いつから本格的なトランペットのレッスンを始めたのかな。

将来プロになりたいと言っているのに何もしてなかったので、小学4年生の時に母の教え子でもあった、世界的トロンボーン奏者の玉木優さんがまだ日本で活動していて、身近な存在だったので、玉木さんにアドバイスをもらい始めました。その後、玉木さんが渡米されるということで、クラシックのトランペット奏者である藤田小津枝先生を紹介してもらい、小学校6年生から高校2年までレッスンに通いました。当時はまだジャズを全く知らず、クラシックや歌謡曲を発表会などで演奏していました。


中学でまさかの卓球部入部!!あれ、トランペットは…

── ついに中学校で吹奏楽部に入るのかな。

中学で吹奏楽部に入らなかったんです!

── え、そうなの!?じゃあ一体何部に!?

今まであまり言ってこなかったのですが、卓球部に所属していました。なぜ吹奏楽部に入らなかったかというと、当時自分はちょっと尖っていて、中学の吹奏楽部で一から楽器をスタートする子が多い中で一緒にするのは、あまり気が進まなくて。あと、女の子ばかりの部活というのも嫌でした(後に女子生徒率90%の県立国際高校に進学することになることを当時の小倉くんはまだ知らない…笑)。で、中学で最初に仲良くなり、帰り道が同じだった友達が卓球部に入るという事だったので私もなんとなく入部しました。テニスかバドミントンがしたかったのですが、うちは小さな中学校でどちらもなかったので。すごく軽い気持ちで入ってみたものの、卓球部の顧問の先生は超熱血!という厳しい方で(笑)。朝練は毎日、土日も1日練習か練習試合、その他筋トレ、走り込み、発声練習…。卓球って簡単に見られがちですけど、結構激しいスポーツなんです。そのおかげで大切な成長期に基礎的な体力作りはできました。中学生活の傍ら、トランペットは小学校から引き続き、藤田先生に習っていたのですが、部活に時間を取られて当然練習できるわけもなく、先生に会うたびに「前回と変わっていない。」と怒られていました…。まあ、トランペットの事はともかく、生徒会活動にも積極的に取り組むなど充実した中学生活ではありましたね。お昼の放送も私が担当していて、自分や友達が好きだったJ-popを流していました。そう、中学でもまだまだジャズに出会っていませんでした。今でも中学時代の友達はすごく仲良くて、ライブを見に来てくれる事があるのは嬉しいですね。
そんな卓球一筋の中学時代にも卒業文集では将来の夢はトランペッターと書いていましたし、学校の宿題であった社会の職業調べもトランペットの藤田先生にお話を聞きましたから、トランペッターという仕事に関心は持ち続けていました。とはいえ、レッスンでは全然進歩がない私に先生からはそのままでプロにはなれないと言われ続けていましたね。


高校からは音楽に集中!ついにジャズと出会う。

このままではプロになれないと先生から叱咤激励を受けて、高校からは音楽に集中すると宣言しました。それまでは小2の時に買ってもらったトランペットをずっと使っていたのですが、誓いの意味も込めて、ヤマハのXenoを買ってもらいました。だからこそ、これは本当に頑張らないといけないと思いました。

── ついにジャズの話が出そう!笑

高校は兵庫県立国際高校に進学しました。国際高校では入試で英語の面接試験があるのですが、そこでも、「世界的なトランペッターになって海外で活躍するために英語を頑張りたい」と話したくらいです。トランペットの練習をしてなかったくせに世界をなめていますよね(笑)。
国際高校は、私が入学した当時、まだできて間もない高校だったので、吹奏楽部を作れる人数も揃わず、顧問の松崎充先生が少人数でもできるジャズバンド部を作ったんです。まぁ本格的なコンボ(少人数編成)というより、当時はまだビッグバンドのスモールバージョンという感じでしたね。ここで初めてジャズと出会いました。その松崎先生がとても素晴らしい方で、私たち部員にみんなで作る音楽、アンサンブルの楽しさを教えてくれました。当時の私がジャズに夢中になって、ジャズトランペッターになるという新しい夢を持つきっかけをくれたのも先生でした。その先生に喜んでもらいたいというのもあって、部員たちみんなで練習はすごく頑張りました。とは言っても、創部したばかりのうちの学校にとって、周囲のジャズをやっている高校生たちが目標としている、ジャパンスチューデントジャズフェスティバル(JSJF)に出ることは、夢のまた夢でした。私がいくら出たいと言っても、それは無謀だと先輩たちには受け入れてもらえませんでした。でも、どうしても出たくって。私は他の高校の演奏会へよく一人で聴きに行っていたんですが、そうしているうちに「俺たちも頑張ったら同じようにできるんじゃないか」と強く思うようになって。同じ学年のみんなとも、やっぱり大きな舞台で演奏したいという気持ちが一つになって、それでJSJFに初出場することを決めました(それ以降は、兵庫県立国際高等学校Hoppin’NoteはJSJFの常連校となり、毎年優秀な成績を残されていますね)。先輩たちが引退して、自分達の学年が中心の代になってからはとにかくめちゃくちゃ練習しましたね。部活をしに学校へ行っていた感覚でした。JSJFでは、結果なんかどうだっていいから、とにかく自分達のやりたい事をステージ上でやろうじゃないかと。カウントベイシー・オーケストラの楽曲など、ジャズの有名な曲を演奏するとヘタがバレるので、「オバケのQ太郎」をビッグバンドアレンジで演奏しました。歌の上手い子がいたのでその子を全面に押し出して(笑)。当時、その演奏がけっこう話題になったんです。しかも初出場で優秀賞(15位以内)を取れて!先輩たちも相当驚いて、表彰の時に駆け寄ってきて祝福してくれました。優秀賞がどのくらいの賞なのか全くわかっていませんでしたが、自分達の力でなんかすごいことを成し遂げられたのかと思うと、本当に嬉しかったです。その後さらに練習に取り組み、高校3年生の最後の夏の大会ではだいぶランクアップして5位(兵庫県教育委員会賞)を取る事ができました。

── ジャズの知識は学校以外ではどんな事で得ていたのかな?

当時、姉が阪大に進学してジャズ研に入って、そのジャズ研の所有している音源とかを沢山借りてきてくれたのが、とても参考になりましたね。その中にカウント・ベイシーの音源が沢山あって、一気にハマりました。姉のiTunesから勝手にiPodに音源を落として通学時間に毎日聞きました。ベイシー楽団の楽曲のみを演奏することで全国的にも有名な、大阪大学The New Wave Jazz Orchestra(以下NWJO)の定期演奏会や学祭もよく聴きに行っていて、とても憧れましたね〜。その時のスタープレイヤーが現在も関西を中心にプロのサックス奏者として活躍されている當村邦明さんで、当時から當村さんは学外でも活躍されていたので、自分も當村さんみたいなプロのプレイヤーになりたいなぁと憧れました。私の高校時代はヘタがバレるからと言って、ベイシーの曲をなかなかさせてもらえなかったので、とにかく大学ではベイシーをやりたい!という気持ちがさらに強くなりましたね。


休学あり、山野出場あり、あっという間に走り抜けた大学生活

── 休学あり、山野出場あり、あっという間に走り抜けた大学生活

高校に入ったばかりの頃は、大学では国公立の音大に進みプロの道を目指すと決めていて、学校の先生に相談に行ったりもしたのですが、部活の顧問から「ジャズでプロを目指すなら普通の大学のジャズ研に入るかアメリカに行け」と言われたので、志望校は山野ビッグバンドジャズコンテストの常連で強豪校の阪大か同志社の二択にしました。結局、大学は同志社大に進学することになりましたが、阪大NWJOへの想いを捨てきれず、阪大のジャズ研に入部しました。大学1回生の間は、一軍であるNWJOには入れなかったのですが、上回生には姉の弟というのもあって覚えてくれて、けっこう気に入ってもらえたんですよ。
それが縁で上回生の先輩が繋がりのあった早稲田大学ジャズ研の子達との交流もでき、何度か東京にも遊びに行きました。早稲田のモダンジャズ研究会に立ち寄って、今ではプロとして東京で活躍されている、サックス奏者の中山拓海さんや中島朱葉さん、ピアニストの永武幹子さんや海堀弘太さん、ベーシストの勝矢匠さん、トランペット奏者の荒牧峻也さんらのセッションにも混ぜてもらいました。彼らの見ている世界は当時の私と全然違うので、相当刺激を受けました。みんなとにかくうまかったですし。そんな凄い同世代の彼らの事を関西の人にも知ってもらいたくて、後に関西で学生同士の対バンイベントなどもけっこう企画しましたね。
また、横尾昌二郎さんとの出会いもとても大きかったです。一回生の時、高槻ジャズストリートでたまたま演奏されていたのを聴いて、この人だ!俺の目指す所は!と痛烈に感じて、ネット検索し、ホームページにあったアドレスにすぐにメールをしてレッスンを受け始めました。西宮にあったジャズ喫茶コーナーポケットにも同じ時期に通い出しましたし、NWJOには入っていなかったものの、1年目から濃いジャズ研ライフを過ごしました。
そして翌年2012年に念願の大阪大学NWJOにメンバーとして誘っていただき、4thトランペット兼、専属M Cとして一年間活動しました。その1年はとにかく毎日バタバタしていて、週3で部活の練習、別に週3で塾講師のアルバイト、もちろん授業も1限からまだまだあったので朝も早くて、西宮の実家から京都の大学まで通うだけでなく、練習で遅くなると友達の家から学校に通う日もあり、もうとにかく忙しい。演奏や練習に集中したい!でも学校の成績は落としたくない、だから考えた結果、その次の年は思い切って大学を休学しました。復学後はちゃんと勉強に集中できましたし、勉強と部活、そのどちらも可能にするにはいい判断だったと思います。また、その1年間学校に通わず、音楽とバイトに集中する日々を過ごすことによって、今後プロになった時の生活が自分に合うかのシミュレーションにもなりました。大学時代の仲間たちと汗と涙を流しながら全力を尽くして挑んだ、山野ビッグバンドジャズコンテストでは、その成果もあって、2回生の時総合5位、3回生の時に総合6位を取れました。学バンの“青春”って感じは好きですね。全員がプロになるわけではないのに同じ一つの目標に向かって一生懸命になれる事、それってすごく素敵な事だなと思います。

── 学生時代のことだけで話が盛り沢山ですね(笑)。今回のインタビューは完全に学生時代にフォーカスしたインタビュー記事としましょう。それでは最後に、今回アメリカへの留学というなかなか思い切った決断をされたと思うのですが、そのキッカケは何でしょうか?

高校2年生の夏休みに、顧問の松崎先生に連れられて、大阪芸術大学に、当時来日されていたJuilliard Jazz Orchestra(ニューヨークにあるジュリアード音楽院の教師陣と生徒たちによって結成されたビッグバンド)のクリニックを受けに行った際に、ニューヨークのプレイヤーたちのレベルの高さに衝撃を受けました。高校も国際科だったので、もともと海外への憧れは強かったのですが、この経験でさらにニューヨークで音楽を勉強したいという思いがより具体的に湧いてきました。大学3回生の休学明けに、1ヶ月間ニューオリンズ大学へ短期留学に行ってジャズの本場、アメリカの空気に触れたのも大きかったですね。ニューヨークへは旅行では何度も行ったことがありましたが、長期の留学は今回が初めてです。 今振り返ってみると、これまでの人生、色々な節目で良い出会い、良い環境に恵まれてきました。これからのアメリカ生活でもそういった良い出会いがたくさんあることを期待しています。

── トランペット、ジャズ一直線かと思いきや、実はクラシックからのスタートという所、また中学時代に卓球部だったというのも今回話を聞いて初めて知り、本当に意外でした。紆余曲折を経てジャズの道へ邁進、そしてアメリカ留学されますが、帰国した時には、また意外な土産話と共に、さらに大きくなって帰ってきてくれる事でしょう。