ビッグバンド漫談
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田中啓文のビッグバンド漫談
エリック・ドルフィー

同じフリージャズ黎明期の大物プレイヤーであっても、オーネット・コールマンの音楽はどちらかというとわかりやすい。つまり、彼は「そのとき吹きたいように吹く」のであって、言ってみれば、良い意味の「でたらめ」である。そういう「気分一発的」な演奏というのは、聴衆にとっても、「ああ、もう、わけがわからん」という風にはならず、「なんだかわからないけど、とにかく彼は今、こう吹きたいのだろうな」と納得できる。しかし、ドルフィーの音楽は、どう聴いても、なんらかの楽理に基づいて演奏されているようである。しかし、その理屈がどういうものかさっぱりわからないので、「でたらめ」というより「難解」という印象を与えてしまう。ドルフィーの演奏は、ビバップの発展形というか、こういうコードのときはこういう音づかい、という風に関連が感じられるのだが、異常な音程の跳躍、変態的なリズム、不協和音を思いっきり強調したフレージングなどから、「こいつ、ちょっとおかしいんじゃないの?」とは思われたとしても、「むちゃくちゃだ、でたらめだ、アホだ、音楽がわかっていない」とは思われない。確信犯的にこういうフレーズを吹いている、というのは誰しも理解できる。本人も、

私は自分の演奏を調性にのっとって考えています。たしかに私は与えられた調にある通常の音とはいえない音で演奏します。しかし私にとっては、これらの音は正しい音として聞こえるのです。私は自分が、発想のおもむくまま勝手に変えているとは決して思いません。私にとっては、私の吹くひとつひとつの音は、曲のコードに関連しているのです。

と述べている(「エリック・ドルフィー」ウラジミール・シモコス&バリー・テッパーマン(間章訳))。この発言は重要だ。文字通り受け取れば、ドルフィーの頭のなかでは、ああいった音使いが「正しい音」として響いているということになる。あのようなグロテスクなフレージングが「正しい」と思える感性とはどのようなものか。つまりは、この世界のものではない、あの世の、あるいは異世界の感性と言えるのではないか。我々の世界では醜悪、グロテスク、不快と感じられる事柄が、どこかしらの異世界では美しい、心地よいつながりと感じられるかもしれない。大宇宙に生命の存在が人類のほかにあるとして、その相手と、地球上の狭量な感覚ですべてが通じると思うのは人間の傲慢である。いや、地球上でさえ、日本人が鯨を食えば、欧米人は顔をしかめ、アボリジニが蟻を食べ、中国人が犬を食べれば日本人は「考えられん」と言うではないか。他者を理解するのは容易ではない。映画「エイリアン」を観ても明らかなように、よその星の美醜善悪を受け入れるのは困難である。ドルフィーは、もしかするとそういった、よその世界の美醜の感覚をかいま見たのではないだろうか。それまでの人間にとっては醜悪と感じられていたもののなかに、彼は美しさを発見したのではないだろうか。私は、SFという小説は科学を扱った小説でも宇宙が出てくる小説でもない、「グロテスクなものと美しいものの同居」あるいは「グロテスクなもののなかに美を見いだす」小説であると思っている。この話をしはじめると長くなるので避けるが、通常の小説では描きえない「美」を描けるのがSFの特権なのだ。普通のひとは、深海魚やアメフラシ、ゴキブリ、蛙の卵……などを見て、不気味、グロ、気色悪い……という感想を抱くが、それらをよくよく見つめていると、一種異様な美しさが浮かびあがってくるときがある。ダリやキリコといったシュールレアリスム初期の絵画にも似た、そんな「グロテスクのなかにある美」をドルフィーも音楽において見いだしたのではなかろうか。宇宙のどこかに、ドルフィーが美と感じるものが美で、我々が美と感じるものが醜である星があるかもしれない(ドルフィーの額の瘤を見ていると、あながち勝手な空想とも言えないようだ)。もちろん、異世界の美の探求者はこの世界の人々には理解されず、孤高の存在となるしかなかった。ドルフィーは「異星の客」なのである。彼の初リーダーアルバムの邦題が「惑星」だというのは興味深い。

著者Profile
田中啓文
1962年、大阪府生まれ。作家。
神戸大学卒業。1993年、ジャズミステリ短編「落下する緑」が「鮎川哲也の本格推理」に入選。
同年「背徳のレクイエム」で第2回ファンタジーロマン大賞に入賞しデビュー。2002年「銀河帝国の弘法も筆の誤り」で第33回星雲賞日本短編部門を受賞。主な作品に「蹴りたい田中」「笑酔亭梅寿謎解噺」「天岩屋戸の研究」「忘却の船に流れは光」「水霊 ミズチ」(2006年映画化)などがある。
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