ビッグバンド漫談
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田中啓文のビッグバンド漫談
エリック・ドルフィー

つぎにフレーズ。あの跳躍多用のサウンドは、当時の評論家がよく口にしていたような「でたらめ」ではもちろんなく、あのころの(いや今でもそうかもしれないが)どんなアルト奏者よりも、「きちんと考えて音を選んで、コントロールしたうえで吹いている」からこそできることなのである。サックスを吹いたことのあるひとならわかるだろうが、あんな極端にオクターブジャンプを繰り返すようなフレーズを吹くのはとてつもないテクニックが必要だ。昔、一度だけドルフィーのコピーを試みたことがあるが、音が跳びまくり、こんな譜面見たことない、と思うようなものになった(もちろん、それを吹こうと思ってもまったく吹けないのだった)。しかもあのすごい音色であのフレーズを延々と吹き続けるのは、まったくもって人間業でない。たとえばファラオ・サンダースやアイラーなどが「ぎょえーっ」と叫ぶの聴いて、「ああ、耳障りなノイズだ」と感じるひとはたくさんいるだろうが、慣れてしまうと逆に、「ああ、すごい叫びだ。かっこいい」と感じるようになる。これはあたりまえであって、サンボーンやガトー・バルビエリなどがフラジオでスクリームするのを聴くのはめちゃめちゃファンキーでかっこいいわけだが、その部分だけを取り出すとファラオ・サンダースのスクリームとさほど変わらないのだ。まあディストーションをかけたギターを聴くようなもんである。しかし、ドルフィーのアルトのあのフレーズは、いつまでたっても「慣れる」ということがなく、ひたすら我々の心をざわつかせ、いらだたせ、紙ヤスリでこすられるような不安感、不快感をあおる。もちろんそういった感覚を「快感」に心のなかで変化させるだけの受容力が聞き手にないと、フリージャズなどいつまでたってもただのノイズだが、ドルフィーの演奏はそういうなかでも快感に変化させるのがむずかしい、一番手強い音楽だと言えよう。音色のところでも書いたが、ドルフィーのフレーズというのもまた、愚直なまでにシリアスである。ソロの出だしを聴くと、ぎゃはははと笑いだしたくなるような演奏なのだが、しだいに「これは笑っていてはいけないのではなかろうか」と思えてき、だんだん聴いているほうも居住まいを正してしまう……そんな音楽である。ドルフィーを笑いながら聴いていいのか、というのは、ドルフィーファンの永遠の課題だと思うが、よく考えると、あんなにげらげら笑える演奏もないのだ。

そして、彼はいわゆる多楽器奏者であって、アルトとフルートとバスクラリネットをほぼ均等に使い分けていた。フルートは現代音楽の影響も感じられる、幽玄かつ現代的なサウンドで、アルトのような激しい跳躍はないかわりに、神秘的な表現力によって我々をどこか遠くにいざなう。また、バスクラリネットの不気味で嘲笑的なサウンドは、それまでジャズにはなかった新しいもので、底知れぬ魅力と魔力を持っている。

こういったことを一度にやっていたドルフィーは、とてつもないパワーとエネルギーに溢れていたのだと思う。コルトレーンは六十年代を凄まじいエネルギーで駆け抜けたように思われており、それは正しいかもしれないが、ドルフィーもまた、あの小柄な身体に地球規模の巨大なパワーを秘めていたと考えられる。コルトレーンのエネルギーはだれにでも感じ取れるタイプのものだが、ドルフィーのそれをきちんと受け取れるひとは限られていたのだろう

しかし、最近はなんとドルフィーのコピー集なるものも販売されており、ついにドルフィーが一般的にも正しく評価されるときが来たか、と思ったが、なかなかそうはいかないようである。次回はそういったあたりについて述べたい。

著者Profile
田中啓文
1962年、大阪府生まれ。作家。
神戸大学卒業。1993年、ジャズミステリ短編「落下する緑」が「鮎川哲也の本格推理」に入選。
同年「背徳のレクイエム」で第2回ファンタジーロマン大賞に入賞しデビュー。2002年「銀河帝国の弘法も筆の誤り」で第33回星雲賞日本短編部門を受賞。主な作品に「蹴りたい田中」「笑酔亭梅寿謎解噺」「天岩屋戸の研究」「忘却の船に流れは光」「水霊 ミズチ」(2006年映画化)などがある。
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