いやはや……それはたしかに凄まじい演奏だった。ちらっ、ちらっと「マイ・フェイヴァリット・シングス」のメロディの断片は出てくるのだが、全体的な印象はというと、ぎょえーっ、ぐわーっ、どへーっ、ぎゅめーっ、じばーっ、ぐえおーっ、ずるめーっ、でへどーっ……というような感じ。とくに、はじめて聴いたファラオのソロにはぶったまげた。サックスだか何だかよくわからない。何人もの人間が絶叫しているようでもあり、未知のけだものが咆哮しているようでもあり、酔っぱらいがぶつぶつ言っているようでもあり、とにかく「咆哮」であり「絶叫」であり「泣き喚き」「吠えまくり」「怒鳴りちらす」……といった言葉でしか表せない強烈なソロだ。一度に複数の音が出ていることはわかるのだが、とてもサキソフォンから放出される音とは思えない。まるでシンセだ。どうやって出しているのかさっぱりわからない。私は「凄い……凄すぎる」といいつつ、一心に聴いていたのだが、ふと気づくと客は誰もいなくなっていた。あの時の客には今でもすまんことをしたと思っている(その後、店は潰れた)。これが私とファラオの初対面だった。 (前回も書いたが)ファラオは良くも悪くもはったりの人だ。パーカッションをいっぱい並べ立て、呪術的なベースのオスティナートを響かせた中で、ぎょえーっ、ぐわーっと咆哮する。これが全てなのである。何だそれだけか、と言うなかれ。聴いていると、めちゃめちゃ気持ちいいのである。そして、こういった「咆哮」をするためには、いわゆるハーモニクス奏法(同時に複数の音を出す奏法)を極めていなくてはいけないが、ファラオは世界でも有数のハーモニクス奏法のマスターなのである。
コルトレーンの死によって一人になった時期のアルバムは、コルトレーンという精神性がなくなったためか、はったりばかりが目立つ大袈裟でワンパターンの駄作ばかりだと思うが、その全てを私は愛している。その後一時期の沈黙をはさんで、テレサレーベルの諸作(とくに、「ライヴ!」はファラオ初心者にまず薦めるべき傑作中の傑作)で復活を遂げたファラオは、今日までいろいろなセッティングで佳作を発表し続けている。疑似アフリカ的なテイストの作品と日本制作のバラード集的な作品を両輪とし、ビル・ラズウェルにプロデュースさせたり、若手の作品にゲスト参加したり(フランクリン・キアマイアの「ソロモンズ・ドーター」というアルバムは、ファラオのブチ切れた咆哮てんこもりの大傑作。最近ではケニー・ギャレットの「ビヨンド・ザ・ウォール」での演奏もよかった)と八面六臂の活躍だ。近年は、クラブジャズ的な側面でスポットライトが当たっており、大手輸入盤ショップにいけば、ファラオの代表作はたいがい揃うという良い時代になったが、ファラオの本質が、大袈裟でいかがわしく、はったりに満ちたものであることにかわりはない。なんだ、それっておまえの小説と同じではないか、というあなた……そうなのです。実は、ファラオの演奏と私の小説はよく似ており、そのことには高校時代から気づいていたのです。