ビッグバンド漫談
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田中啓文のビッグバンド漫談
社会人バンドマンの個人練習法

いくらでも時間のある学生諸氏はさておき、社会人バンドマンにとっていちばんの課題は、なんといっても個人練習時間をどのようにキープするか、ということだろう。管楽器を演奏しているひとならわかるだろうが、管楽器というものは、基本的には毎日、基礎練習をしないと演奏技術がどんどん落ちていくものである。演奏「技術」というと、指遣いとかのテクニックのことと誤解されるかもしれないが、そういうものの前段階としての、「楽器を鳴らす技術」のことである。

トランペットもトロンボーンもサックスも、しばらく吹かないでいると、まるで楽器が鳴らなくなるし、音程をキープすることも、長時間吹きつづけることもできなくなる。そういう状態でたまにバンド練習に行っても、音は出ないし、すぐにバテるし、ろくでもない結果にしかならない。社会人バンドというのは、メンバーはみんな忙しいのだから、たまにある練習のときは、全員がちゃんと個人練習をしてきて、音を出したらすぐにバーン! とアンサンブルがあって、楽しく練習が進む……という状況がのぞましい。うまく吹けないメンバーがいると、そのひとが吹けるまでみんな待ってないといけないわけだし、そうこうしているうちに全員疲れてきて、練習が進むほど演奏はぼろぼろになる……というような悲惨なことになりかねない。そうならないためにも、日々の基礎練習、個人練習が不可欠なわけだが、これが言うは易し行うは難しで、なかなかそうはいかない。どうしてかって? それは、社会人のみなさんならよくわかっているはず。

朝六時半に起き、歯磨き洗顔トイレ朝食着替え……を三十分で済ませ、行ってきまーすと家をでて、駅までチャリンコでダッシュ、満員電車に一時間揺られ、へとへとになって会社にたどりつき、朝礼会議電話応対外回り昼食外回り報告書類の整理伝票書き夕食残業接待でカラオケ飲酒……と休む暇なくしゃかりきに仕事をして、深夜、泥のようになってようやく帰宅。熱いシャワーを浴びて汗と会社勤めの澱を洗いながすことはできても、全身にべっとりまとわりついた演歌のフレージングまでは流すことができず、缶ビールを飲みながら、そうだ、ジャズを聴こうとCDラックを物色するも、だんだんしんどくなってきて、ジャズはやっぱりヘビーすぎる、まあ今日のところはユーミンにしとこ、というわけで、ユーミンをBGMにビールを一本あけ、そのまま寝てしまう。四時間後には目ざまし時計に叩きおこされ……というようなハードな日常生活を送っている社会人諸君が、たまの休日、びしっと早起きして河原へ行き、楽器を取り出してロングトーン(※)からスケール練習(※)、「パターン・フォー・ジャズ(※)」をひととおり、そのあと楽譜を出してきて自分のパートをさらう……というわけにいかないのはあたりまえである。いや、
「来週は練習だし、そろそろ個人練習しとかなけりゃな」

という気持ちはある。というのも、前回の練習時、あまりにイメージどおり楽器が吹けないのに自分でいらだち、練習後の飲み会のとき、ほかのメンバーたちと、
「やっぱ、基礎練しないとダメだわ。つぎの練習までには、バシバシ個人練習して、ちょっと吹けるようにしとかないとな」
「俺んちの近所、河原があるからあそこで吹くわ。たまに学生とかがロングトーンしてるし」
「俺の家のすぐ裏に高速の高架があるんだ。あそこならいくらでかい音出しても大丈夫」
「やっぱりさあ、管楽器はちゃんと基礎練やっとかないと、いきなりバンド練習してもおもしろくねえよなあ」

※については、2ページ文末に注釈がついています。(編集部注)
著者Profile
田中啓文
1962年、大阪府生まれ。作家。
神戸大学卒業。1993年、ジャズミステリ短編「落下する緑」が「鮎川哲也の本格推理」に入選。
同年「背徳のレクイエム」で第2回ファンタジーロマン大賞に入賞しデビュー。2002年「銀河帝国の弘法も筆の誤り」で第33回星雲賞日本短編部門を受賞。主な作品に「蹴りたい田中」「笑酔亭梅寿謎解噺」「天岩屋戸の研究」「忘却の船に流れは光」「水霊 ミズチ」(2006年映画化)などがある。
http://www004.upp.
so-net.ne.jp/fuetako/
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